沿革
Company Historyさまざまな節目
昭和四十六年(一九七一)、株式会社岩瀬健次郎商店は、創業四十周年という節目を迎えた。
健次郎は、取締役である健治を呼んだ。
「我が社も、今年は創業四十周年を迎える節目の年や。そこで、お前を取締役副社長に任命しようと思ってな」
「あ、ありがとうございます。謹んでお受けします!」
目を輝かせる健治を見て、健次郎の感慨もひとしおだった。
創業40周年の記念品、長さ約90センチの大きな温度計
健治は大学卒業後、岩瀬健次郎商店に入社。そしてすぐに壽化学工業に出向することになった。当時の壽化学工業は、赤字続きだった。
会社の立て直しを図るため、順調な岩瀬健次郎商店ではなく、別会社である壽化学工業へと健治は送られたのだった。壽化学工業の数千万円の赤字を、岩瀬健次郎商店の黒字で補うという状況だった。
健治は考えた。そして、壽化学工業を立て直すべく、まず健治がしたことは、確固たる基盤を作るため、工場管理、人材管理を徹底的に見直すことだった。
しかし言葉で言うほどたやすいことではなく、毎月の試算書を見ても本当の売上や利益がどうなっているのかわからなかった。化粧品メーカーの経営の難しさと原料商社の両立の難しさを身をもって体験することになったのだ。
特に化粧品メーカーであるプリンス化粧品から完全撤退し、OEM(受託製造)工場として全面転換した昭和四十年代半ば、壽化学工業では「仕事がない」という状況におちいっていた。
健治は取りあえず、彼等に仕事を与えることから考えねばならなかった。
商品の箱詰めのような仕事も受注し、なにか仕事をさせ、赤字を少しでも減らしたかったのだ。
さらに健治は、国内で商品を製造する海外大手化粧品メーカーの下請けにも力を入れ、ファベルジェやマックスファクターなどの仕事を徐々に増やしていった。
昭和五十一年(一九七六)、東洋ビューティ(昭和四十四年に壽化学工業から株式会社東洋ビューティケミカルに社名変更、その後、昭和五十一年に東洋ビューティ株式会社に社名変更)も、ようやくOEM事業が軌道に乗り、ユニリーバの下請けの仕事を始めることになった。四年前にドイツのハンブルグ工場へ技術者を視察に送ったことが、ようやく実を結んだのだった。 そして、昭和五十四年(一九七九)、健治は特命を受けて、東洋ビューティー株式会社の社長に就任した。
健治の新たなる挑戦
昭和51年、社内研修旅行(大阪東京合同)、愛知県犬山市にある「博物館明治村」を訪ねる
昭和五十年代に入ってもなお、化粧品業界は依然順調な伸びを見せていた。化粧品の出荷高は五千億円を突破し、花王も化粧品メーカーとして業界に進出してきた。
健治は社内を改革していくのに、さまざまなアイデアを駆使した。たとえば昭和五十二年(一九七七)から始めた「東西会議」である。
始めた当初は営業部員だけが大阪に集まった。その後、社員全員が大阪本社に集い、会社の業績や内容をお互いに報告するようになった。回を重ねるうちに社員も増え、開催場所もホテルなどで行うようになり、役職の上下を意識することなく、それぞれが思い思いの意見を活発に出し合うようになった。社内の風通しを良くし、全員が会社にとって重要な一員であることを認識するとともに、ひとつの目標に向かい一丸となるために毎年、三月に開催している。
また健治は岩瀬健次郎商店とは別に、化粧品原料と中間体の製造を目的とした「大日本化成株式会社」を同じ昭和五十二年(一九七七)に設立している。
同じ頃、健治は会社運営のヒントを求めてアメリカへと渡った。視察に訪れたシリコンバレーの工場で健治が目にしたものは、インターネットの現状だった。
昭和五十三年(一九七八)頃と言えば、一般の人はコンピューターなど見たこともさわったこともない代物だった。そんな時代に、健治はコンピューター導入の重要性をアメリカで痛感し、帰国したのだ。
健治は、株式会社岩瀬健次郎商店にコンピューターを導入するため、業務部にシステム構築を行う業者との連携を命じた。
そして、昭和五十五年(一九八〇)、ついに株式会社岩瀬健次郎商店に、オフィスコンピューター第一号が導入された。
健治のこの「新しいモノ好き」が功を奏して会社が発展していく、というのには理由がある。新しい商品は出始めの頃は当然高価である。あと二、三年もすればぐっと安くなるから、通常は安くなってから導入する会社がほとんどだが、健治のように出始めの頃に導入を決断すれば、他社が導入した頃には社員全員がほとんど使いこなしている状態となっていて、すでに三年はリードしている状態をつくれる。当初からパソコンは一人に一台。「パソコンを使えば能率が格段にアップする」ということを実践して見せたのだ。
社名変更、そして昭和から平成へ
坪井幸男さんは当時、社歌まで作詞作曲した
昭和五十七年(一九八二)、新しい社名を社内で募集し、当時の社員、坪井幸男さんの考案した案が採用された。社名を「岩瀬コスファ株式会社」へと正式変更。「コスファ」とは、コスメティック、ファイン・ケミカル、ファーマシーという三つの単語を合成した造語だ。
社名変更記念講演会・記念パーティーも、東京と大阪で大々的に開催された。同じ年、健次郎は会長に就任。代表取締役社長として、長男の健治が任命された。それはひとつの時代の終焉であると同時に、新たなステージの幕開けでもあった。
化粧品生産高は一兆一千四百四十億円となり、業界はついに一兆円産業となった。
昭和六十四年(一九八九)に入って七日目、昭和天皇崩御のニュースが日本国中を駆け巡った。ほどなく発表された新しい元号は「平成」。昭和から平成へと移り変わったこの年、他にも多くの才能がこの世を去った。手塚治虫、美空ひばり、松下幸之助、松田優作……。
そして……。
平成二年(一九九〇)九月六日、岩瀬コスファ株式会社の創業者である岩瀬健次郎が亡くなった。享年八十三歳。通夜、蜜葬儀を茨木市の自宅にて行い、また社葬は千里会館にて行われた。
大阪本社6階会議室にある岩瀬健次郎の胸像
社員の有志によって寄贈された。
そのとき社葬で、健治は先代が人格者であったことをつくづく感じずにはいられなかった。社員も、運転手も、多くの人が「自分が一番かわいがってもらった」と言うのだ。
「誰に対しても分け隔てなく、親身になって接してたってことなんやろなぁ……」
健治の瞳が、涙で光った。
「それが、きっと先代の一番偉いところや。小さいことでも大きいことでも、同じように一所懸命に対処する。俺も、そういう人間になれるんやろか」
ふと、子供時代の実家の様子が思い出された。いつも人の出入りが絶えず、社員も家族のように集い、みんなが笑い合っていた。
「あの光景が、先代の築き上げた我が社の原点……。それを忘れずに引き継いでいくことこそが、私の役目なのかもしれない」
健次郎が亡くなったことは大きな悲しみだったが、会社は前へ進んでいかなくてはならない。
創業六十周年にあたる平成三年(一九九一)には、記念講演会と記念パーティーを開催した。東京ではパレスホテルにて西野流呼吸法・西野塾主宰者の西野皓三氏に「気」の実演をしていただき、大阪ではホテル日航にて西野氏の一番弟子である女優の由美かおる氏を招き、それぞれ大きな盛り上がりを見せた。
巨大市場、中国への進出
平成3年9月、海外研修旅行(大阪東京合同)香港
岩瀬の中国の看板
岩瀬コスファの北京事務所。左の写真が事務所のあるビル
平成四年(一九九二)には、健治が近畿化粧品原料協会会長に選出された。その頃から、健治は中国進出について考えていた。
当時の中国の一般女性は、まだ化粧をする人は少なかった。だが、市場の大きさは言うまでもなく世界一。所得水準が上がれば、化粧品が売れる時代は遠からずやってくるはず……。そのためにも、まずは岩瀬コスファの名前を浸透させ、じっくりと顧客づくりをしていくことから始めようと、健治は考えた。
現地で社員がやることは、まず電話帳で化粧品会社を探すこと。目についた会社に電話をかけて、研究開発部門があるかどうかを尋ねる。あれば、出かけて行って直接交渉をする。地道な方法だが、代理店などを使って中国への足がかりを作ろうという気は毛頭なかった。代理店を使っていては、本当の情報は手に入らない。
「中国では、モノを売るより信用を売れ」
それが、当時のスローガンだった。中国の会社に原料や処方技術の提案など、情報を提供して信用してもらうことが大切なのだ。こうして、岩瀬コスファは着実に中国の顧客との信頼関係を築いていった。
少しずつ顧客が増え始めた頃、さらに大きな壁が立ちはだかった。
平成十三年(二〇〇一)、日本でBSEの疑いがある牛が発見されたのだ。化粧品の原料が問題ないことはデータで示されたものの、動物由来の原料はすべて輸入規制がかかる可能性があった。そんな中、岩瀬コスファ上海事務所の動きは早かった。まだ中国政府が規制をかける前に、顧客に対して説明を行ったのだ。
「今はまだ、規制はされていませんが、うちで扱っている原料も、いずれ規制の対象となる可能性があります。この原料を使っていただけるかどうかのご判断をお願いします」
岩瀬コスファとしては、明らかに不利になる情報だった。対象となるプラセンタエキスは高級美容液で、中国でも一定の売上が見込まれていたから、なおさらのことだった。しかし、その情報を提示したことで、かえって顧客の信頼を得たのだった。
今や上海、廣州、北京の現地スタッフは三十一名となり、現地で自分たちで稼いで運営できるまでになった。
岩瀬健治は海外のスタッフに対し、「岩瀬コスファの社員は、化粧品の専門家として常日頃から勉強しておいてください。化粧品の応用研究と技術を深めて総合的に提供できるのが、我が社の特徴です。社員一人ひとりが化粧品について、広い知識を持っている商社なら、世界のどこに行っても受け入れられるはずです。化粧品原料として、すぐれた原料をより多くの世界の人たちへ、また、より広い世界中から集めたすぐれた原料を日本へ……そういう気持ちで、頑張ってください」
と、語った。
新しい時代、二十一世紀
平成十年(一九九八)、明石海峡大橋が開通したのと同じ年に、大阪の新本社ビルが完成し、五月十二日に竣工式典とパーティを催した。また、平成十年(一九九八)は会社設立五十周年、東京事務所開設四十周年という節目の年でもあった。記念講演会と記念パーティが大阪・東京にてそれぞれ開催され、健治は社員と共に喜びを分かち合った。だが、節目はあくまでも節目であり、健治のチャレンジが途切れることはない。
同じ年に上海事務所と廣州事務所を開設し、翌年の平成十一年(一九九九)には北京事務所を開設した。
完成した新本社ビル
平成十二年(二〇〇〇)、二十世紀最後の年、世界がミレニアムに湧く中、健治は改めて初心に返る気持ちを持って、年頭の抱負を語った。
「中国でもアメリカでもヨーロッパでも、岩瀬コスファのやることは同じ。その基本を忘れなければ、きっと我々の会社は世界中で通用する。化粧品原料の専門商社としては、世界一になる可能性だってある」
岩瀬コスファ株式会社は、社会に存在する価値がある。その確信が健治の中で固まりつつあると同時に、より力を蓄える必要性も感じていた。
「海外へ良いものを、そして海外の良いものを日本へ……」
この健治の言葉のように、岩瀬コスファは素晴らしい原料を海外へ販売するだけでなく、世界各国で見つけた素晴らしい原料を、日本国内へどんどん紹介していくことを積極的に進めた。
平成十三年(二〇〇一)時代は二十一世紀に入った。
同じ年、日本の化粧品業界にも大きな変化が訪れた。今まで承認制であった化粧品の原料が、原則フリーになると共に、全成分表示が法律によって義務づけられた。もちろん、岩瀬コスファではこの規制緩和をチャンスととらえた。
原則フリーで使用できることになったが、化粧品原料に第一に求められることは絶対的な安全性であり、次に求められるのが有効性であり、処方上の有用性、安定性などである。
この法改正を機に、技術的な資料作りを積極的に行い、顧客に対するプレゼンテーションの取り組みも行うようになっていった。
「お客様がレベルアップされるのだから、会社もレベルアップしなくてはならない」
ちょうど創業七十周年を迎えた岩瀬コスファ株式会社にとって、二十一世紀のスタートは、新たな飛躍への第一歩でもあった。